Way of my Life

心たゆたうまま、まるまると生きる

たんたんさんに出会った

たんたんと続け たんたんとやる

やるべきことを たんたんとする

それだけじゃん、って

脳みその隙間から聴こえたよ 声が

 

たんたんとするだけだから

目標が必要で

目的が必要で

糸の切れた風船が

ふわふわと空を風の吹くままに飛んでいたのが

がっちしGPS付けちゃって

地上からの指令で 行きたい場所へ向かうという

そんなニュアンスを思い描きました

ようやっとこ腑に落ちそうである

 

明確な目標があることで

たんたんと近づくだけである

ふうむ

ようやく

私の中での「目標」とか「するべきこと」の定義が変わりそうである

 

 

呼吸を共にするということ

今朝の練習

スリヤナマスカラへ入るまでに呼吸をしながら自由に動く

 

息を吸う

息を吐く

の間の時間を感じることから始めた

つまり、吸うと吐くの間は、どんな意識でいるのか

 

吸った後、吸うでもなく吐くでもない時間がある

吐いた後、吐くでもなく吸うでもない時間がある

 

その瞬間

息を止めている瞬間

その瞬間、身体を巡る呼吸の流れにフォーカスしていたら

あっという間にスタンディングまで終わってしまった

 

いかに、今まで、呼吸を無視してきたか

いかに、今まで、頭で動いてきたか

(自分では呼吸と共に動いてきたつもりでいたんだよね)

(つもり…人間て"つもり"が多いよなぁ)

 

呼吸することは生きることだ

生きることは自分を中心に据えることだ

自分を中心に据えることは自分の心地いいところを探すことだ 

 

つまり

呼吸すること=自分の心地いいところを探す  (注:私の考えでは)

だから

呼吸の仕方で人それぞれ生き方が決まっていくのかもね

私は、今までのような身体中に力を入れていつも緊張しながら生きていくのはやめようと思うんだ。

だから、自分の心地のいいところにいながら呼吸をしていく

 

アシュタンガヨガで癒された…と思ったよ

自分の好きな呼吸数でしていったからだと思います

アシュタンガを家で練習するのに、今はこれでやってみようと思う

呼吸にリードしてもらう練習

 

 

 

優柔不断ではない

電車に乗って息子と遠くの公園へ。

車窓から見渡す限り、のどかな田園風景が広がっていた。

季節的に、今は稲刈りの時期で、あちこちてコンバインが動いていた。

その景色を眺めながら、こんな風景が好きだなぁと思った。

でも、若い頃。

もっと刺激のある都会的な景色が好きだったのを思い出した。

あー歳のせいかなぁ?

と、この心境の変化についてくくりたくなったけれど、よくよく思い返すと、都会的な景色は今でも大好きだ。

幾重にも重なる道路や線路がビルの合間に見えるのや、すごく綺麗に整備されている公園やスカイツリーなどの巨大な建築物、沢山の華やかなお店に、都会の赤いランプの光る夜景、ガード下の雑踏や、狭い路地裏なんかも、都会らしさがあってとてもよい。

でも、一方で、果てしなく続く空が見え、一面に田園が広がる景色も同じくらい好きなのだ。

若い頃、

それが優柔不断だなぁと思っていた。

どちらか一方が好きにならなければいけないと思っていた。

友人たちや周りの人間が、

わたしはコレコレが好き!!

と、強く言う様に憧れていた気がする。

自分はそこまで強く何かを好きになったことがない、、だって、これにはこれの良さ、あれにはあれの良さがある…と思っていたもので、どちらか一方には決められないなぁ、困ったな。と、思っていたものだ。

そして、何かが好き!と表明する為にはそれ以外のものは好きではいけないのだっ!と思いこんでいた。

 

余談ですが、

当時流行っていた槇原敬之の『どんなときも。』の歌詞の中で、

 

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち抱きしめてたい

 

というのがあって。

これは本当に本当に胸に響き、私は、自分の好きなものさえ好きと言えないでいるのか、、と思ったものだった。

余談終わり。

 

今思えばね、どちらか一方に決めなくて、全然いいのだけれど。

 

例えば、きのこの山たけのこの里は断然、たけのこの里に軍配はあがるけれど、それだって多分ね、たけのこの里ばっかり食べていたら、たまにはきのこの山も食べたくなると思うんだよ。食べたくならない人もいるかもしれないけれど。

若い頃は、そんな自分が少し嫌だったのだけれど、モットーがないのか!お前はー!みたいな。

自分の好奇心に負けた…と思うことがよくあって、それでいつも自分を責めていた。

今は、別にどっちでも良いさと思うようになった。たまに食べたくなる自分を許せるようになったのだ。(もっというと、もう、きのこもたけのこも、どっちでもよくなっているんだけれど。)

もっと言うと、自己肯定感の低かった私は、何かしらを、いつも自分を責める材料にしていたのかもしれない。

 

田舎の景色も都会の景色も、いつも、自分の中で見たい場所を見ているだろうし、だからそれをジャッジしていたって仕方がない、というかそこを見ている自分を、実はジャッジしていることになるんやねぇ。

そして、それは何にでも当てはまることなんやよねぇ。

 

 

 

お菓子たべたんよ

今朝、お菓子食べたんよ

朝ごはんがお菓子

ポテチ

ビスケット

クッキー

とか

食べたいだけ食べました

 

食べていたら

そのうちに

身体が重い

頭が鈍くなる

のが、わかったんよ

 

今朝お菓子食べたんよ

お菓子食べてるって気付きながら食べたんよ

うん

ようやく自覚できたんよ

気がつきながら何かするって

こういうことなのか!

実験するってこういうことなのか!

という、新たな感覚に浸るわたしなのであった…

 

 

 

わたしたち

わたしたちは、一歩ずつ歩み、そして感じたことを全て、噛み締めていくしかないのだ。

しかないのだ、と書いたけれど、残念な気持ちは全くない。

ただ、単に、それが事実なんだろうなぁ、、と少し気がついた、ということ。

 

・・・

 

今日はタダヨガの日でした。

先頭車両に乗るのが好きな私は、運転士さんの席の後ろの窓から、外を見ながら帰ってきました。

運転士さんの仕草を見ながら、ぐんぐん進む電車も体感できる。

すれ違う電車、追い越す電車、見ていて飽きない。

ファーン!という警笛が鳴ったのでなんだろう?とよく見てみたら、保線作業の皆さんが黄色い旗を上げて線路脇に立っていました。

こんなに沢山の人の手によって、電車が動いているんだ。

私はありがたく、それに乗れている。

嬉しいなぁ、ありがたいなぁと感激で少しウルウルしながら帰ってきました。

見渡せば、世の中は完璧な調和をとりながら動いています。

わたしもその中の一員です。

わたしはどんな風な調和を望んでいるのかしら?

 

 

 

自分を無視しちゃうのさん

いつからだろう、

自分の気持ちを言葉にしてこなかったのは。

いつからだろう、

ふわっと浮かぶ言葉を無視し始めたのは。

 

最初は、どーせ私の話は聞いてくれないよね。っていういじけモードからだったよね。

でも、それがいつの間にか自分の基本姿勢になってしまった。

相手が誰であろうと、自分の気持ちを飲み込む癖がついてしまった。

 

そもそも、いじけモードだろうが、

言わない

選択をし始めたのは自分です。

ねぇねぇ、言わないでいるのって実は楽だったでしょ?

言う方が、わかってもらおうと手を尽くす方が大変だって思っちゃったんでしょ?

それ、間違ってますからー!

そこにいると抜け出せませんからー!

 

自分の気持ち、わかってもらおうとしなくてもいいんだよ。自分がわかっていればそれでいいんだよ。

でも、自分の気持ち、表に出していこうよ。

それだけでさ、世界は広がるよ。

自分で自分を感じていこうよ。

認めていこうよ。

 

 

 

 

さぁ、旅に出よう

9月からのタダヨガクラス

『さぁ、旅に出よう』

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呼吸(自分)というガイドを共にして、身体中くまなく旅をしたら、最後は自分に戻ってこよう。

 

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という訳で、私自身もこれから旅に出ようと思います。

あ、本当の旅ではありません、笑。でも、いつか、というか多分、そのうちフラッとどこかへ向けて旅立つのかもしれません。

 

今、思うこと。

今のわたしは、

私が本当に心の底から伝えたい事を、

伝えたい人に、

伝える事がむつかしいな、ということ。

まだ、私にはその力がない。

 

なので、これから西遊記みたいな旅に出てきます!