Way of my Life

心たゆたうまま、まるまると生きる

涙の種類

涙はどこからやってくる??

息子の考える涙のカテゴライズ。

 

嬉しい涙…from全身

悲しい涙…from胸(心)

怪我した時に痛くて出てくる涙…from怪我した場所

感動の涙…from目、耳、など。

感動がどこから入ってくるかで違うとのこと。(ex. 言葉を聞いて感動したなら耳、景色を見て感動したなら目、というふうに)

 

 

なるほどなぁと納得。

 

 

 

出来た!

昨日は何もできない一日であった。

エネルギー切れ、である。

そんなもんだから、朝からテレビを観続け、洗濯物は洗ったのに、洗濯機から出したのに、干さず、食器もシンクにそのまま。

なぜか、掃除機はかけた。これはよっぽど床が気になっていたのだろうと思う。

昨日、自分の様子をブログに書いて、寝た。

こう振り返ると、何かはしている。

そういえば、太陽礼拝と筋膜リリースはした。

 

今朝は、寒さと、息子が私のベッドに侵入してきて腰をガンガン足で蹴られて起きた。笑 

母さんは一瞬イラっとしながら起きたけれど、そのスヤスヤとしている寝顔を見て、ほっこりしながらベッドから出た。(母さんと言う生き物は我ながら凄いと思うなり)

 

息子を学校へ送り出してから洗濯物も台所も手をつけず、お風呂を沸かしてしっかり温まった。

体がとても冷えている気がしたのだ。

エプソムソルトをザバザバ入れ、お気に入りの精油を垂らし、20分しっかり浸かり。

そして、お風呂から上がり、

ようやく昨日の状態を見ることができるようになった。

あぁ、エネルギーが切れて、プスンプスン…て言ってたのねって。

エネルギーが切れている時、私はまだまだエネルギー切れの自分を意識することができないんだと改めて感じた。

今までの私、基本、エネルギー切れていたから笑、その状態になった時もあまり違和感がないんだと思う。

満タンになったことの方が少ないから、エネルギーある時の方がまだ、自分では意識することができている、気がする。

そして自分を観る時、実はエネルギーが必要なのだと感じた。

これは大事な気づきだ。

エネルギーがプスンプスン状態だと、自分を保つのに精一杯で自分の無意識を観るどころではなくなる。

まずは充電。少し貯めよう。そこから始めればいいのだ。何も自分を責める必要はないのだ。

 

 以前からなんとなく感じてはいたことだが、私は気持ちの振り幅がとても激しい気がしている。

ヨガをしていて、新月、満月を意識し始めてから気がついたことがあった。

新月に差し掛かる時期は、凄くテンションが上がり、新月を過ぎ、満月へと動き出す時、体も落ち着くし心も少し落ち気味になるのだ。新月が過ぎると、一度心と体ががくんと落ち、大ブレーキがかかる。これはなんの影響なのだろうか、と先ほど考えていた。

そのまま月の影響なのか、ホルモンの切り替わりの影響か、自分で上がり過ぎたテンションを下げてバランスをとっているだけなのか、、、、、何にせよ自分で自分をそう動かしているんだろう。

 

このブログを書きながら、ヨギティーを飲んでいる。

タグに書かれていた言葉は、

Use your head to live with heart.

心で生きる為に頭を使いましょう。

そうですね。

 

昨夜息子をぎゅーして、自分をぎゅーしてあげられた気がした→寝ながらブログを書いて寝た→今朝、体を温めようと思った→お風呂入った(精油で幸せ)→温かい&綺麗さっぱり→歯磨き→好きな音楽かける→台所片付け→洗濯物干す→ブログ書いている

 

→→→上の行動は、全部自分が、「そのように出来た」こと。

当たり前じゃないんだよ。

自分に対して「出来た」ことだよ。

ここまで、自分を引っ張り上げた。

→→→ありがとう。と自分に対して思った。思えた。

 

 

 

マッチでポンプよ

自分の主観が問題だ

自分の主観が問題だ

自分の主観が問題だ

 

と、3回、夢の中で朧げに唱えながら、よっこら起きた今朝。

重い頭をなんとかもたげてベットからのそのそ足を下ろした。

そんな事を思い出し、どんだけわたしは自分を追い込んでいるんだろう、と午前中は苦笑いだった。

自分で自分を追い込むの、相変わらず好きだよね。

苦しい苦しいって苦しんで見せるのも相変わらずのパフォーマンスである。

 

夜、お風呂に入った。

こんなわたしでもお風呂のあたたかなお湯は全てを受け止めてくれるし、受け入れてくれるのだなぁ…とぼーーとしながら思った。

こんなわたし…

こんなわたし?

こんなって何?

わたしは、こんなわたしという形容詞を付けなければいけないの?

ものすごい虚脱感…

 

マッチポンプもいい加減にしろやー!って思いますた。

 

夜寝るときに、息子をムギューと抱きしめて、髪を撫でた。

あたたかい。

柔らかい。

なんと愛おしい存在であろうか。

息子を抱きしめている時、わたしはわたしを抱きしめている。

今日は特にそう感じたよ。

 

息子は、わたしなんだなって、感じた。

 

 

 

もう修行僧だった

先日バスに乗ってて気がついた。

私、欲しいものを欲しいと言わず、

聴きたい音楽も聴かず、

読みたい漫画も読まず、

やりたいことをやらず、

生きてきたなと。

 

やっぱり、もう修行僧してたんだ…笑

 

それに気がついて泣けてくる

誰も何も禁止していなかったのに

自分で自分に様々なことを禁止してきた

その最中は気がつかない

自分で修行僧しているのに

誰かに何かを強制されたような感覚で

 

なんであんなにストイックだった?(というのか?)

実は周りを見下していただろう?

自分は違うと意識していただろう?

 

世界は広いんだぞ

それを見て

聴いて

感じないでどうする?

 

自分のちっぽけさを感じても

自分を責める必要はないし落ち込む必要もないよ

 

 

 

否定しない

自分を否定しない

その瞬間の自分を否定しない

きれいにみせない

↑これ否定してるじゃん…て思わないでね

 

ありのまま、その瞬時の自分を表現していく

って、できてるようで、できていなかったーーー

 

おふぉー、否定しているーー

 

その瞬間の感じることを出す

アウトプットする

 

めちゃんこむつかしい?

 

生々しさが、なんか受け入れられない

表に出す前に、自分の中のok、not okフィルターを通さずにはいられない

ライブって何が起こるかわからない

見通しが立たないのが怖い

 

なんで?

なんで?

 

その否定が、まわりの人への否定に繋がるんじゃないの???

自分への否定をやめずに、

まわりの人を否定しないなんて、できないんだよーーーー!!!!!

そんなのまじで綺麗事ですよ。

 

 

 

じわり

iPhoneに写し出された

昔の写真

私が撮ったの

あの頃の息子

ぼやけている

笑っている

小さくて

小さくて

可愛くて

小さな手と

柔らかくて薄い髪の毛

大きなおでこ

黒目がちな目

薄いくちびる

チラリと見える白い歯

よだれだらけ

カピカピのほっぺ

いつも

ワセリンを塗ってた

世界の全てだった

あの頃

 

授乳しながら

あの子の睫毛を見ていた

ある時

蝶が羽を広げるように

ふわぁと睫毛が広がった一瞬

それが、それはそれは美しく、不思議で

見逃さなかった、見逃せなかった

自分が、嬉しかった

 

美しい世界を

観せてくれていた

 

今の

目で見れるのは

写真の

あの頃で

 

戻りたいわけではなくて

もう一度やり直したいわけではなく

 

 

息子との世界を

きちんと

心に刻まれてきたのが

わかった

 

誰も邪魔していなかったね

私も邪魔してなかったね

やっぱり

見たいものを見てきたんだ

ありがとう

ありがとう

 

 

 

Lord Huron - The Night We Met (Lyric Video) - YouTube

 

 

 

 

亡霊

以下、以前に書いた記事。なかなか upが出来なかった。被害者意識が見え隠れする自分が恥ずかしいのだ。でも、ありのままを綴っていくことに意味があると考え、これからもblogを続けていく。

 

・・・

 

先日の出来事。

「子どもを抱きしめている時って、自分が抱きしめられているよね」って話しがあって。

 

・・・

 

自分の(それまでの生き方での)人生のどん詰まりに行ったのが、、、

5年前のあの日。

目の前がガラガラ音を立てて崩れていった。

←これって嘘じゃないね、この感覚って実際にあるんだねぇw

袋小路感が半端なかった。

行き場が、、もうこれ以上ないのよね。

 

そこから、今に繋がる様々なことがスタートした。色々なことが噴出し始めた。嫌なことも嫌なことも(良いことなしw)沢山目の前に現れ始めた。

 

今思うのは、あの日は自分にはなくてはならないものだったわ♪ルン♪ とか言うつもりは更々なく、冷静に考えれば、そりゃそうだよねって。

嫌だ嫌だと首をブンブン振りながら、

でも全て受け入れOKとしてきた自分がいたからこそ、

自分の望むことも望まないことも全て、自分で自分の人生に招き入れたのだ、、と、冷静に思う。

そして自ら進んで、袋小路へ入っていった。

まぁ、自分にはそこまでキャパがあったのだ、と思うことにしている。茨の道をやってみたかったんだね、とも少しずつ思えるようになってきた。悲劇のヒロインに浸りたかったんだね…ってね。ははは。渇いた笑いだ。

 

たまには今歩いている道を振り返って、

そっか、ここまで来たんだ、って思いたい時がある。

このブログは、自分にとってはそんな意味を持っているのかもしれない。

あぁ、自作自演。

しかしここで、少し自分の回顧録

 

・・・

 

話を冒頭に戻し。

あの、5年前より以前の子育て期間、

上記のように思ったことは一度もなかった。

確かにまだ乳幼児を相手に身も心もすり減っていたとはいえ、、、

思い起こせば、

抱っこするから抱きしめられるって感じたことは何回かあったような気がするけれど、

なぜか、

罪悪感で一杯だった自分は、そんな風に感じてはいけないと何処かで思っていたようだ…

ああ、思い出した。

自分は癒されてはいけないと思っていたのだ。

許されてはいけないと思っていたのだ。

そんな風に感じる暇があったら、その分も目の前の赤子に全てそそげーーー!みたいな。

全部、ぜーーーんぶ、すべての力を出し切って、目の前の大事な赤子が一番いい状態でいるのを保持し続けろーーー!みたいな。

 

まさに全身全霊

持てる力を全て振り絞り

全ては我が子の為。

私が生きる理由も我が子の為。

 

そうしないと、私の思う良い母になれないと思っていたから。

そうしないと、私は、自分が恨んでいる(恨んでいたんだ…と気づく)あの母のようになってしまうと思ったから。

そんな風に、私は自分の思う理想の母親像&子育てに爆進していたのですけれど、ふと横を見ると、いつもうちの母がいました。(実際の母ではありません、年に数回お盆と年末年始に会う位の距離でしたから)

小さな私から見た母が、私と、私の子育てにべっっったりと張り付いて、常にじーーーっと見ていた。

 

私はこの母親と常に競争しながら子育てをしてきていました。

私のような子にならないように、我が子を育てるのだ、という強い決意を持ち。

小さな頃の私に、母親のようには育てないからね、安心してね、と固く約束をして。

 

母親が子育ての見本。

反面教師。

我が子の顔を懸命に見つめながらも、

がっつりと自分が見てきたのは、

昔の母の顔と、小さい頃の私の顔。

 

今思えば、もう亡霊のよう。

私の過去に生き続けている母ですから。

そして実際の母も生きているからなおタチが悪いw⁈

何故ならその母親の亡霊は、現実の母に会うと、さり気なく更新されてpower upすることもあって。

そして、もっっとタチの悪いことに、私は亡霊でも現実でも、母が恋しくて恋しくて仕方がなかったので、もうめちゃくちゃでしたね、当時。自分で作った渦の中で、溺れまくっていました。

 

母親の亡霊を作ったのも、理想像を作ったのも、Power upさせたのも自分ですが、当時それが自分の意識に上がった事もなく、ましてや言語化することも出来ませんでした。

5年前のある出来事を切っ掛けに噴出した、自分でも気がつかなかった(つもりの)積もったままの母への思い。

5年かけて整理してきた。

 

・・・

 

今、

わたしの横に亡霊の母はもういません。

現在、月に1回、ヨガ哲学の勉強の為に家を空けるので、息子の面倒を見に来てくれる、現実の母。

この間、お母さんって、こんなに優しかったっけって思ったよ。

いや、優しかったんだよ、、、お母さんは、、。

 

やっと、現実に脳みそが戻ってきた。

 

・・・

 

ヨガを始めて、

数年経った頃からかしら、

息子を抱きしめた時、自分も抱きしめられているんだ、、、って感覚が、じんわりじんわり染み込んできたのは。

それからぎゅーぎゅーするのが大好きになりましたとさ。

近所の猫がマジで可愛いく感じ始めたのも、ここ最近だもんね、まじでー、まじかー。

 

 

おしまい

 

そんな物語(人生脚本)を書いてみました。

だーれーがー???

 

・・・

 

先日、我が子を抱っこしていた期間が割と長かったことを思い出しました。

年中さんくらいまで、余裕があれば抱っこしていた。本当に、重さ的に持てなくなる限界までwこれもさ、色々な思いがあったんだろうねぇ。あの時の私さんにはね。