Way of my Life

心たゆたうまま、まるまると生きる

全方位死角なしってこと。

内側に向かう人

外側に向かう人

 

すぐの隣を見つめる人

遥か遠くを見渡す人

 

だから

みんながいるんだな

みんながいて ひとつなんだな

それでようやく ひとつなんだな

 

 

・・・

 

ポーちゃんが餌をくれってさ。

わたしは餌をあげにいくだ。

 

 

海老の皮剥きを追い求めない

わかりかけている、、が、、、

 

「私らしく在ること」とは?

最近、タダヨガメンバーとよく話す。

 

私も、私らしさ、って何?と、今まで随分と悩み苦しんできたけれど、ある時、海老の皮がプリッと剥けたような瞬間があって(笑)

私らしさってどんな事なのか、多分その時に理解して、皮がプリッと剥けたけど、、そのうちにまた古い皮を纏ってしまった気がする(笑)慣れ親しんだ古い海老の皮を、、、

余談。海老が大好きなのよ。海老の皮も、大好きなの。頭も尻尾も身も全部好きなのよ。海老ー!カームバーック!

 

・・・

以下、ワタシ自身へ。

 

どうしたら”私らしさ”がわかるのか? 

 

わたしが、私の内側で、一番に寛ぐことだ。

寛いで、周りを見渡してごらん。

全てが見えてくるよ。

そうしたら、”わたしらしさ”もわかる。

 

全てはそれだけでオッケーなのさ。

全てオッケー、マジでオッケー。

と言うよりむしろ、

それでないとオッケーじゃない。

何したってどんなに頑張ったって、オッケーにはならない。

 

捉え方が変わる。

意味付けも変わってくる。

見る世界が変わるのだ。

 

うはぁ、気がついた!

寛いでいない自分に気がついた!

気がつくことができた!

(๑˃̵ᴗ˂̵)و ヨシ! 

 

 

・・・

 

とろけるような内側で、ただ寛いでいるわたしがいて、

そのわたしが、そのままをそのままで発信していくとして(←これが、現在のチャレンジなんだよな。イマココを行ったり来たり。それに伴い自分も閉じたり開いたりなのね。)

その様を静かにじーーーっと観ているのが自分の本質、”アートマン”だよね?

じゃあ、その時内側で寛いでいるのは、誰なんだ?

それも自分の本質な気がするけれど、、

それは、”自分らしさ”の”自分”でいいのかな。

 

・・・

 

寛ぐ自分を求めないように、

それを追いかけないように、

追いかければ遠のく、

ただ、気がつく、

今の状態に気がつく、

観る、

 

 

 

つみつくり

罪悪感を植えつけること。

コントロールするにはもってこいの手段だ。

自分が自分に罪悪感を一生懸命植えつけている時、私は自分をコントロールしたくて仕方がないらしい。

それで私は、わたしと仲良くなれるのだろうか?

わたしを信じているのだろうか?

コントロールして、わたしをどうしたいのだ?

コントロールしたわたしで、何がしたいのだ?

怖っ!

むくむく湧き上がる罪悪感はね、、

むくむく湧き上がらせているんだね、、私自身でね。。

湧き上がりを許しているんだなぁぁ。

そう、この表現がぴったり。

湧き上がりを自分で自分に許している。

 

まだまだ、わたくし、被害者でいたいのたろうなぁああああぁぁぁ。

 

 

 

inside

苦しみながら通っていた、ある場所を、

今はゆうゆう通り越し、それまでとは遥かに遠い場所へ向かう日々。

ただ、ふと思う、今。

 

 

 

うはー暑い

今日も暑い日です。

あまりの暑さに、そこらに生えている雑草を思わず引っこ抜きそうな衝動に駆られました。え、何それですね。家の近くのドラックストアの敷地に、それはそれは見事な、私の背丈ほどの雑草たちが、、お日様を浴びてすくすくと育っているのです。

 

近頃、マインクラフトというゲームに夢中の息子は学校から帰ってくるとパソコンを延々独占していて、なかなかブログを書くことができませんでした(言い訳です。)

 

それはそうと、現在、ある物語を執筆中、、、

いや、昨日から書き始めたばかりです。

ゆくゆくは絵本にするつもりです。(嘘です。)

ブログ記事で書いておりますが、公開するのかも謎です。

であるならば、この場で言うなという感じではございますが、まぁ、そんなところ。

 

脈絡のない話でも、だんだんとそれを隠そうともしなくなってきました。

それも暑さゆえ、、、、(という言い訳。)

 

それでは、また。

 

 

旅をして、ただいま!と帰ってこよう

今日はタダヨガの日でした!

tadayoga

 

・・・

 

なんで、わたしはヨガをするのだろうか???

最近思っていた。

 

ここに、身体がある。

この世界に、身体を持って生まれてきたからには、

何かしらの意味があって、何かしらの理由があるはずだ。

 

あぁ、そうか、普段はしない姿勢になって、

ここ、かたいなぁ。

ここは伸びる。

ここは、こんな風に感じるのか、、、etc etc

ポーズをとっていると、それはそれは様々、身体で感じることが沢山浮かんでくる。

その浮かんだことを、その度に感じるためだ。

 

身体を、隅々、探索する。

身体を、くまなく旅して、巡って、そのままを感じて、そして

最後は、自分の中に、自分の本当のところに、帰ってくる為だ。

 

旅、なんだ。

行ったきり、じゃない。

また再び、戻ってくる場所が、必ずあるからね。

だから、旅、なんだよ。

 

 

 

いつかのわたしが願ったこと

今、わたしは、ヨガ講師として活動を始めたところだ。(あ、HPにリンク貼りました。モバイルでは見れない?かもしらんから、改めてtadayoga

ようやく、ようやく、自分の人生をクリエイトし始める入り口に立つことができたな、という思いがある。

数年前の自分からは想像もつかない日々を送っていると思う。

 

先日、『願いは叶う、引き寄せの法則とネガティブマインドのススメ』という講座を受けてきた、その帰り道、

電車の中で、私は自分が持っているSuicaをまじまじと見た。

発行日がちょうど10年前の6月23日(昔すごい仲良かった友人の誕生日justなんだよなぁ)、まだ結婚する前だから旧姓の私の名前が書いてある。

通勤定期として買ったSuica(だから、当時の通勤区間の駅名や、自分の名前、年齢も記載してあって。)

あの頃も、私、自分の人生を創りたくて今とは全く違うことを自分なりに一生懸命していた時だった。

 

 あれから、10年か、、もう10年も過ぎたのか。

そう思ったけれど、同時にこの定期として使っていたSuicaを未だに持って、今使っていることに感慨深いものを感じた。

その後結婚し、ほとんど電車を使わない生活となり、このSuicaは捨てても良かったものだった。実際、何度も捨てようか、と思ったこともあったのだけれど、自分の旧姓の残る何か社会的なものって、結婚すると本当になくなってしまうんだよね。当たり前なんだけれど。この定期を捨てたら、あの時頑張っていた自分も、綺麗さっぱりいなくなってしまう気がして、なんとなく捨てられずにいたものだった。

 

電車の中に視点を戻す。

目の前に息子がいる。息子の手を握って、このSuicaを持っている。10年前にはこのSuicaと息子はリンクしなかった。このSuicaと今の環境も、ほんの5年前からでも想像がつかなかった。

でも、いつかのわたしが確実に願ったことなのだ。

そのSuicaを使って、今はヨガマットを背負って、電車に揺られて過ごす、そんな日々。

 

 

今日の記事で何回Suicaと書いたのだろうか…