Simple Chic Yoga

私(azico)、夫、息子の3人暮らし。ヨガな日々を綴っています。

1月25日

久しぶりにブログを書く。

 

一昨日、東京に住んでいる弟に会いに、両親が上京してきた。

私も合流する予定だったが、大雪のために朝からどうしようかと悩んでいたが、結局待ち合わせの東京駅に向かうことにした。

両親とは年末年始ぶり。弟とは、半年ぶり?くらいだろうか?

弟と両親とは1年ぶりくらい。

お互い再会を喜びそのまま近くのビルでお昼を食べた。

 

そこで聞いた話。

私が学童クラブに通っていた頃にお世話になった先生が自殺したこと。

先生は大病を患っていたこと。

それを苦にして自ら命を絶った、ということだった。

 

今でこそ、学童クラブというのは当たり前ではあるが、私が小学生の頃はまだほんのわずかしかなく、特に地方都市でまだ共働きの家庭は少なかった地域に住んでいたので、親たちの行政への働きかけでようやく作られた学童クラブに、私は通っていたのだった。地域の公民館の土地に間借りして作られたプレハブ小屋の学童クラブだった。

そこで出会ったT先生。学校から帰ってくると、いつも優しく出迎えてくれた。学校で嫌なことがあっても、家で嫌なことがあっても、先生の優しい笑顔でいつも安心できていた。

学童クラブをやめた後も、農家をやっていた先生からお米を買っていた為、年に数回家に来てくれていた。

優しい笑顔は変わらずだった。

最後に会ったのは、10年ほど前だ。結婚する前。その時も変わらない優しい笑顔だった。

綺麗なお姉さんになったね、って言われて照れ臭かった。

いや、息子を見せたこともあるかもしれない。

記憶が曖昧だ。

 

先生が病気だったことを知らなかった。

苦しい思いをしていたことを知らなかった。

 

先生のことを思い出すと涙が止まらない。

普段の生活で先生のことを思い出しすこともほとんどなかったのに、こんな時にだけ涙を流しているなんて、とても自分勝手な人間だと思うよ。

 

 

 

2018 明けましておめでとうございます

新年のご挨拶が遅くなりました。

 年末年始は地元で過ごしました。大晦日は久しぶりに紅白歌合戦を観て、年越しは息子と2人で炬燵でお迎えし(夫も親も眠気でダウン)、元日の朝はおせちとお餅を食べた後、家族と両親と初詣へ。昨年引いたおみくじをお焚き上げし、新しく引いたらまた大吉。ありがたく頂戴し、またお財布に納めました。

息子は、初めてのスキーを経験しました。

スキー教室で頑張る息子の顔つきは、乳幼児の頃の外で遊ぶそれと全く同じ面影で、私はそのことにとても驚きました。そして、昔のことを思い出していました。

息子にとって、生まれてからの数年間は文字通り生まれて初めてのことばかり(それは現在にも続くことですが…)。キラキラと、でもよそ見をする余裕もないほど真剣な顔つきで、当時は一生懸命に歩いたり、走ったり、遊んだりしていたのだな、と。初めてのスキーと同じくらい、あらゆる物事に対して真剣な面持ちでいたのだ…と改めて感激していました。

 

 そんなザ・日本人な年越しをして参りました。

今年一年もよろしくお願いいたします。

 

追伸

今シーズンの冬は、地元も例年通りの寒さでした。

私の身体はもうその寒さに耐えられないようで、見事体調を崩しましたとさ。。

寒さはまじやばいです(笑)

家に戻ってきて鼻水とくしゃみからようやく解放されました。

 

それでは、今年もよろしくお願いいたします。

 

 

 

こたえはないのに

自分を信じる事って、、今の自分には、正直、難しい!!!(でもほんとはきっと簡単なんだよなぁ)

 

今朝、夫とあることについて(大したことではないこと)、話し合い、というか言い合い?、よくわからないもやもやを感じ、でも、夫が発した言葉は、、自分が奥底で思ってた事と見事にリンクしていた。

これは、自分中で消化しきれていない、ある現実についてで、これまでの自分の所謂「学び」をどう生かせばいいのか、またその学びの観点から見た時、その現実をどう捉えればいいのか、という疑問がずーっとあったのだけれど…その自分自身の疑問、そのままを、夫の口から私に対して問うてきたのだった。

私は当たり前だが、それには答えられなかった。それはこっちが前から知りたい事なんだよ!って。

 

午前中は近くの日帰り温泉へ向かった。

移動中も夫との会話の中で何故自分はもやもやしたのかを考えていた。

私は夫に、

自分の今の居場所や、世の中の見方、世界をこんな風に感じているんだよ、

ということを分かってほしくて仕方がないのだなぁと、改めて気づかされたのだった。

 

これは、夫の言い方の問題ではなく(笑)、自分の捉え方の問題であり、私がやれる事、というか唯一の方法は、

「自分がやりたい事をやる事」

しかないのだとも改めて思うのだった。

やっぱり、そうなんだよねぇ。

 

温泉へ到着。

久しぶりの温泉はすっっごーく気持ちよかった。

 

身体の温まりが結構早く、時間が取れそうだったので、いつものヨガレッスンの場所へ向かうことにして。

先生に会い、話し、ゴロゴロして。

先生へ聞きたいことがあったのだが、

「答えはないんだよ」

という「答え」をもらえただけだった。

 

そうなのだ。「答え」はないのだ。

なのに私はついつい「答え」を求めてしまう。

そして、答えはないという答えにハッとする。

自分の存在そのものをまだどこかで認められないのだろう。

 

 

以上、12/15に書き留める

 

 

アサナをしない日々

今週の月曜で、7月から続いたセッションが一旦終わりになりました。

帰り際、これからもセッションを続けるかどうかは、自分でやりたかったら続けていってもいいしどちらでもいいよ、ゆっくりと考えてね、と、先生からの言葉を頂き、ヨガスタジオを後にしました。

 

 

 

アサナをしないで過ごす日々が、もう1ヶ月以上経っています。もう2ヶ月近くになるかもしれませんね。

ヨガブログだというのに、ヨガ(アサナ)をしないで話すことばかり(笑)。

近頃書くことは、本当にそうですね、ぼやーとする日々を過ごす中で去来する思いを徒然なるままに書き連ねている訳ですが…これもなかなか楽しいものだなぁと感じています。

以前にも書きました。↓

azicoyoga.hatenablog.jp

 

 

アサナをしない日々を送る中で気がついたこと。

 

毎日、アサナを頑張っていた頃、結構、しんどかったなぁって。

やればスッキリするし、頭の中の思考も最中は止めることもできた。

それがヨガの恩恵と思っていました。

(実際、ヨガの恩恵と言われるものの一つですが)

でも、その根底には、、

「今とは違う自分を目指して」

「今の自分を一旦脇に置いて」

がありました。

今の自分を受け入れられず、今の自分が嫌いで、

今の自分とはかけ離れた、「〇〇みたいな自分」を夢見ての毎日の練習。

 

目標を達成するには、苦しくて当たり前。

今の自分には無いものを付け足して行くのが当たり前。

そうも思っていました。

何かになりたくて、一生懸命でした。

 

私が行ってきたことは、

「〜の為にするアサナ」「〜になる為にするアサナ」

であったのだと、、今ではよくわかります。

(ヨガ哲学的に言えば、ラジャスティックですね。)

 

現在、アサナをしない、しようと思わない自分を責めなくなりました。(ようやく)

一日の過ごし方も、自由気ままです。

なんか、アサナができない、したくないな、と思うようになり始めてから、無理やり再開しなくて良かった。

無理やり続けていたら、ラジャスティックな自分に気がつくことが出来なかった。

 

 

以前の自分と少し違うのは、

今までの「〜の為のヨガ」がなくなってしまった為、自分の今いる場所や位置のようなものがわからなくなった気がすること。そして何処へ向かえばいいのかもよくわからないこと。もやもやの中にいて、手探り、手探り。

少し不安も怖い気もしますが、以前のような、自分を置き去りにしたままで何処か違う場所へ向かって頑張る、というような方向の気持ちというのがとても不自然に感じるようになっており、今は、まだここで止まっていればいいかもな、と感じています。

 先日のセッションで、この不安を先生に打ち明けましたが、

今までの二元的な世界から抜け出して、これまでの価値基準とは違う世界に行こうとするのだから、今まで指針としていたものがなくなり、どうしたらいいのかわからない、と感じるのは普通のことなんですよ、とのことでした。

 

さて、自分はどうするのかな〜???

 

 

 

通りすぎる思考たち

皿洗い、洗濯物干しなど家事をしていると、たくさんの思い(思考)が出てくるので困る(時もある)。

 

皿洗いをしながら、

世の中の全てについて、偏った見方をしたくないな、と思う。

あの人は、なぜあんなにも偏った見方をするのだろうか、と思う。

と同時に、自分自身がその人のことについて偏って見ていることに気がつく。

 

洗濯物を干しながら、

今までの生き方を振り返る。

自分は何に苦しんでいるのか?何をどうしようとしたいのか?

何を心から欲しているのか?

 

一通りの家事を終えて、一服しようとコーヒーを淹れることにした。

ドリップしている最中、

フィルターから少しずつ染み出し、大きくなるその粒は、その、自身の重さに耐えられなくなるとポタっと落ちる。

カップの中へコーヒーの雫が一滴、一滴、落ちていく。

この雫を見ないで、何が人生だ、と思った。

この瞬間、瞬く間に落ちて消えていく雫を見ること。

自分は、この雫を見続けたいのだ、いや、真摯に見続けていかなければならないのだ、そう思った。

それ以外のものは、なんの価値も意味もないのだな、と思った。

 

今、この瞬間も、世界のどこかではあらゆる雫が一滴、一滴と落ちている。

その雫たちを、私はこの目で見てみたいと思う。

体験するのだ。雫の落ちる様を。

そして、その世界を自分のものにしていきたいのだ。

そう思った。

 

 

 

写経

先週末に歯医者さんへ行き、地獄の歯痛から解放、やっと今日から復活です!

 

今日、写経をしてきました。

筆を持つのはうん十年ぶり。やや緊張でしたが、あっという間の二時間弱。

筆を進めていきながら感じることは、ひたすら自分の内面のこと。

 

うまく書きたいと思う。

いやいや、うまく書くことが大事なのではないのよと思う。

早く書きたいと思う。

いやいや、ゆっくり丁寧に書くのだよ。

まぁ、なんでもいいのだよ。

いや、よくない?

周りが多少気になる。

全然気にならない。

子供たちの声が心地よい。(託児付きだったのです)

面白いことを話しているな。可愛らしいな。

手元は真剣。

文字が震える。

ここは失敗したな。

この字はうまくできた。

ここが苦手。

この字好き。

足が痺れてきた。

肩が痛くなってきた。

色々な思いがぐるぐると巡る。

そんなこんなしていたら、昔に言われた嫌な言葉(正確には、その当時、自分が嫌だな、受け入れられないな、と感じた(反応した)言葉)がいきなりふわっと思い浮かんできた。普段の生活ではもう、思い出さないような昔の、些細な言葉。

今の自分が、同じ言葉を聞いたら同じ反応をするのだろうか?

…するかもしれないなぁ。

でも、そこまで反応するかなぁ。

…どうだろう、わからないなぁ。

なんて思いつつ、それでも確かだなと思ったことは、

「おぉ、自分はどんだけ自由にい続けたいのだろうか!」

「ここまで、私は自由にこだわるのか!」

という、

「自由であること」

への強い欲求を感じたこと。

 

 

内面を見つめる時間、久しぶりでした。

とても楽しかった。自分発掘、やはり面白い。

また、やりたい!

誘ってくれた友人よ、本当にありがとう〜!

 

 

 

知覚過敏!

歯が痛い。一昨日から痛み始め、今は鎮痛剤を飲みながら過ごしている。多分知覚過敏だ。前にも一度、眠れないほど痛くなったことがあって絶対に虫歯だー!と思いながら歯医者さんへ行ってみたら、知覚過敏です。と言われた。

実は、知覚過敏、恐るべし!なのです!

 

昨日の夜に痛みで目が覚めて、ズキンズキンという痛みと格闘していた時、(鎮痛剤をギリギリまで我慢しようと思っていたので)

「自分の身体は、なぜこんなに痛みを感じるのかな?

実は、自分は痛くないのよね。身体が痛いのを感じているのよね。」

(マリオのゲームよね。RPGなのよね。)

と、少し離れたところから観察してみると、結構痛みが治まるような気がした。

これは不思議な発見。

でも、実際には痛みが和らいだ訳ではなく、多分同じ痛みを身体は感じているはずなんだけど。

脳がそれを100パーセント感知してない?というか。

 

いずれにしても、今日これから歯医者さんへ行ってきます。 

ご飯が食べられない…涙(別に食べられなくてもいいんだけれど笑、やっぱり痛いのはいやよね)