Simple Chic Yoga

私(azico)、夫、息子の3人暮らし。ヨガな日々を綴っています。

マットの上と日常の端境②

さて、昨日の続きです。(昨日→マットの上と日常の端境①

f:id:azicoyoga:20161213110417j:image今日のプラクティス中の空。

その頃の私にとってヨガは、特別なもので、マットの上の自分も特別な自分でした。日常生活を全て忘れられる時間。自分自身でいられる、いてもいい、ほんの僅かな時間でした。

それくらい、当時の自分は“家族のため”だけに生きていた気がします。自分の存在意義を、夫や子どもに求めていました。“自分”を見て欲しくて仕方ないはずなのに、自分の役割(妻、母)を全うせねばと必死でした。

そして、ヨガレッスンに通ってみたいと思い、ここに行きたいんだけど…とオドオド話した私に、夫の「行ってきたら〜」という軽い言葉に何度も背中を押されて、ようやく最初の一歩が踏み出せたて。

最初はぎこちなかった気持ちや動きも、マットの上では伸び伸び出来るようになっていきて、段々と楽しくて、嬉しくて、面白くて、もっともっとヨガに浸っていたいという思いが強くなった時期には、家族がいることが自分の足かせになっているとまで考えたこともありました。

その当時のヨガの向き合い方は、on the mat、off the matという線引きが明確にあって「日常生活そのものがヨガ」という意味もいまいちピンと来ず。

マットの上とマットを下りてからでは生きる軸がまるで違っていて、ヨガと日常生活がリンクしなかったのだろうと、今では思います。

 

今は日常とヨガをしている時間が、意識の中でいい意味で曖昧になってきています。まるで夜明けの空の色が暗闇から濃紺、紺色、とグラデーションに変化している時の、様々な色が入り混じった空のような。

マットの上に立ちアーサナをすることは、変わらず大切な時間です。でも、マットを下りた後の日常生活においても、同じように自分の気持ちや周りの人の気持ちを大切に扱い、日々丁寧に過ごしたいと思うようになってきました。

家族がいるからこそ、私は今マットの上に立つことができているんだという事実。

家族と共に歩むことが今の私の人生なんだという事実。

意識の自然な流れに身を任せつついたら、何となくそう気づいて、いつの間にか受け入れていました。

ほんのりと僅かな変化。でも私にはとても大きなことだと感じています。

 

この変化については、息子も大きくなり少しずつ手が離れて私の自由な時間も増え、気持ちに余裕が出てきたことも、きっとあると思います。

息子が今よりずっと幼かった時は、確かに我慢が必要だったり、頑張らないと乗り越えられないことがありました。でも、1人で我慢して、1人で頑張ることを選択したのは結局は自分で、自分が自分に1番我慢や頑張りを強いていて。確かに乳幼児は母親でしか対応出来ないこともありますが、それでも全てを抱え込む必要はなかったなと。むしろ夫が育児をする機会を奪っていたと、感じます。

私は頑張っていました。でもそれは独りよがりの頑張りでした。間違った方向に頑張りすぎて、必死すぎて、幼き頃の息子のことをあまり思い出せません、、、。ここまで1人で甘えたり頼ったりが怖くてできない理由も何となくわかってはいますが、その話はまたいずれ。

 

〜のためにという思いも、いつの間にか被害妄想にすり替わり、どんよりとくすんだ重く粘度の高い空気感を纏って生きていた私。

まだその粘度はおそらく高めだと思うので、自分や周りの人たちを窒息させることなどないように、私はとにかく新鮮な空気を胸一杯に吸い込みながら、こんがらがった色んなものをゆるめてほぐして伸ばして薄めていくつもりです。

そして私を形作っている色々な素、味の素ならぬ“私(わし)の素”(まさかのダジャレ!)のたくさんの粒々を、コツコツ少しずつ新しいものに入れ替えていく作業を続けていこうと思います。

今は、まさに人生の端境期だっ!