Simple Chic Yoga

私(azico)、夫、息子の3人暮らし。ヨガな日々を綴っています。

心配されることに対して見えてきたもの

人生は選択の連続だ。
先日、私たち家族のある選択を打ち明けたところ、案の定、心配をされた。遠回しに。
うん、わかってます。言いたいことや心配なこともわかっています。
でも、そうしたいから、私たちはそう決めたのです。

・・・

 

今日、さらに楔を打ち込みに手紙がやって着た(笑)
彼女の懸案事項がツラツラと書かれてあるその手紙を読んで、やはりそうか、いつもの手だな(笑)とか思いながら。

今までの私は、誰かに心配されると、まさに楔を刺されたようにそこから一歩も動けなくなってしまって。

安心させなくては、とか、失望させてならない、とか、思っちゃって。
自分の気持ちはとりあえず脇に置き。
誰かの期待に沿わなくては、私の価値はない、と思い込んでいたから。苦しくて仕方がなかったけれど。
当時は気がつかなかったけれど、そういうものだと思っていたのですね。


しかしそんなことを続けていくと、自分を見失う。
いつの間にか自分ではなくなる。

 

・・・

 

彼女の心配はごもっとも。そしてそんなことは百も承知です。
何故なら、私自身が一番それを心配し、恐れているのを知っているから。
私が心配していることをまざまざと見せつけられ、そのおかげで私は今日のぼや〜とする時間のほとんどを、そのことが脳裏をよぎり続けました。

 

「やだ私、やっぱりすごい心配しているんだわ」
と感じました。

 

でも同時に、

「この人、私自身が選択した結果ということに気がついていない??」
「彼女の言うような、今回のことで苦労させられるなんて、思ったこともない」
「むしろ、ワクワクしている。我慢なんて全くしていない」
と思い。



それから、

「この人相変わらずだな」
「心配という言葉で人を縛り付けてコントロールしようとしているように見えるな」←私がまだ抜けきっていないからだと思う。
「いい加減、その”心配”とやらを手放したらいいのに」
「…彼女は”心配”をこれまでもずっと握ってきた。つまりは手放したくないのだな」
「本当の意味での応援はしてくれないのだな」
「自分の責任のないところまで、負おうとしているようだな」
とジャッジし。

 

「彼女はまだ起こってもいない出来事に恐れを抱いて回避しようとするのだな」
これは…私自身か。いや、出てきたもの全てが私自身かもしれない。

 

しかし、気持ちはありがたく受け取るにしても、彼女の「心配」に付き合うつもりはない。

・・・

「心配」
親が子どもを縛り付ける言葉の一つに、これほど巧妙な言葉はないのではないかなと、思う。

「心配」の本当の意味とは。

 

は!!!そういえば!!

昔の私、「心配の気持ち」のねっとりとした使い方、していたなぁぁ。見えちゃった。

今回の手紙は、まさに鏡だな。
私がしみがみついている「心配」が向こうからやってきた。
私自身の中の「心配」を、私がよく見えるように姿を表してきたのだ。
わー、そうか、そうか。
こうやって、私の世界が外側に表れてくるんだ。おもしろーい!

さて、後は、見えたから、気がついたから、どうするか?

・・・

未知なことに向かうのに、不安と期待が入り混じる。
行動した結果、何か懸案事項が生じたらその時にまた考える。
そして、選択していく。
その選択は、各自それぞれ。
その繰り返し。その繰り返し。
本当の自分はどうしたいのか。