Way of my life.

心たゆたうまま、まるまると生きる

母と充分に踊った

今まで、私は母との関係に大きな葛藤を抱えながら生きてきた。

最近それが、薄くなり、なくなりつつあり、今までの数十年、充分に充分に味わったあの感覚が手を離れつつあるのを、私はどこかで気がついている今、若干の寂しさのようなものまで感じている。慣れ親しんだその感覚が、時に自分を苦しくさせ、辛くさせるものだったとしても、手放す時は何となく心許ないものなのだな、ということにも気がついた。

今ようやく、私は子どもの目線から離れ、1人の人間として、または1人の女性として、母という人間を観ている。

これは、、ある人間を観ようとする時の当たり前の立ち位置な筈だ。しかし私は、それが長年出来なかった。

自分の思いを満たそうと必死だったからだ。

母の愛を確かめようと、必死だったからだ。

私は、母に愛されている筈の、その大切な根拠を、私の思い出を分析し、思い出の母を分析し、どうにか見つけようと必死であった。

また、私から観た母の人間性を、深く細かく分析し、それのどれが私をどう苦しめたのか、、、、そんなことばかりをいつも考えていた。

自分が母の立場になってからも、その思いは益々強くなってき、息子を見る度に、母の、子どもの頃の私を見ていたであろう、その目線に思いを馳せ、感じようとする自分。そしていつも思うのだった。私はこんなにも息子を大事に思う。だからこんなことをしてあげている!それなのにお母さんは、私がして欲しかったことは何もしてくれなかったじゃないか!!!と、私の中の小さな自分がいつも叫んでいた。

自分も親となり、親は万能ではないことが身に染みてわかったはずだった。でも子どもの頃の私は、親には万能であることを心底望んでいて、その頃の小さな自分が、未だに私の中で、万能な母を望んでいることにも気がついた。

今は、母のその人間性が良し悪しなく、私の中にすとんすとんと入ってくる。なぜそんなこと言うの?なんでそんなことするの?が、無くなりつつある。あ、こういう人だったね。で終わる。母の価値観も見える。私の中にはないものだ。違いがあって、それでいいのだ。ブログ書いてて気がつく。私は母と一体化したかったのね。

 

親と子の関係は、味わい深い。スルメだ。噛めば噛むほどうまいのだ。学ぶのだ。

私は今まで、私の中で、母親とクルクル絡まりながらずっとダンスを踊ってきたようだと思った。踊らされてきた気がしたけれど、実は自分から母と向き合い、自分から必死にステップを踏んできた、そんな気がする。

もう充分楽しんだ。もう、充分。

いち人間としての視点に立つ今、心からの感謝が湧き出てくることに、驚いている。今までも感謝はあった気がするけれど、私はどこかで育ててくれて当たり前と思ってきたのだ。

 

今、母の、大きな愛に気がつく。放って置かれたと、ずっといじけてきたけれど、母は、1人にしておいてくれたのだ。

自分の子どもだからと、いつまでも手を握っていたのではなく、さぁ自由に羽ばたけと、手放していたのだ。

私は、母の胸の中で充分踊った。

本当にありがとう。