Way of my Life

心たゆたうまま、まるまると生きる

優柔不断ではない

電車に乗って息子と遠くの公園へ。

車窓から見渡す限り、のどかな田園風景が広がっていた。

季節的に、今は稲刈りの時期で、あちこちてコンバインが動いていた。

その景色を眺めながら、こんな風景が好きだなぁと思った。

でも、若い頃。

もっと刺激のある都会的な景色が好きだったのを思い出した。

あー歳のせいかなぁ?

と、この心境の変化についてくくりたくなったけれど、よくよく思い返すと、都会的な景色は今でも大好きだ。

幾重にも重なる道路や線路がビルの合間に見えるのや、すごく綺麗に整備されている公園やスカイツリーなどの巨大な建築物、沢山の華やかなお店に、都会の赤いランプの光る夜景、ガード下の雑踏や、狭い路地裏なんかも、都会らしさがあってとてもよい。

でも、一方で、果てしなく続く空が見え、一面に田園が広がる景色も同じくらい好きなのだ。

若い頃、

それが優柔不断だなぁと思っていた。

どちらか一方が好きにならなければいけないと思っていた。

友人たちや周りの人間が、

わたしはコレコレが好き!!

と、強く言う様に憧れていた気がする。

自分はそこまで強く何かを好きになったことがない、、だって、これにはこれの良さ、あれにはあれの良さがある…と思っていたもので、どちらか一方には決められないなぁ、困ったな。と、思っていたものだ。

そして、何かが好き!と表明する為にはそれ以外のものは好きではいけないのだっ!と思いこんでいた。

 

余談ですが、

当時流行っていた槇原敬之の『どんなときも。』の歌詞の中で、

 

どんなときも どんなときも
僕が僕らしくあるために
「好きなものは好き!」と
言えるきもち抱きしめてたい

 

というのがあって。

これは本当に本当に胸に響き、私は、自分の好きなものさえ好きと言えないでいるのか、、と思ったものだった。

余談終わり。

 

今思えばね、どちらか一方に決めなくて、全然いいのだけれど。

 

例えば、きのこの山たけのこの里は断然、たけのこの里に軍配はあがるけれど、それだって多分ね、たけのこの里ばっかり食べていたら、たまにはきのこの山も食べたくなると思うんだよ。食べたくならない人もいるかもしれないけれど。

若い頃は、そんな自分が少し嫌だったのだけれど、モットーがないのか!お前はー!みたいな。

自分の好奇心に負けた…と思うことがよくあって、それでいつも自分を責めていた。

今は、別にどっちでも良いさと思うようになった。たまに食べたくなる自分を許せるようになったのだ。(もっというと、もう、きのこもたけのこも、どっちでもよくなっているんだけれど。)

もっと言うと、自己肯定感の低かった私は、何かしらを、いつも自分を責める材料にしていたのかもしれない。

 

田舎の景色も都会の景色も、いつも、自分の中で見たい場所を見ているだろうし、だからそれをジャッジしていたって仕方がない、というかそこを見ている自分を、実はジャッジしていることになるんやねぇ。

そして、それは何にでも当てはまることなんやよねぇ。