Way of my Life

陰ヨガ・ヨガインストラクター。心たゆたうまま、まるまると生きる。

世界が微笑む

今朝は

泣いてばかりだ

 


自分の気持ち

そのまんま話せばいいこと

 


一番、話せない人、、いや、話したくない人

 


少しだけだけど

打ち明けられたよ

 


そしたら

困ったことに

嬉しいことに

 


決して貰うことはないだろうと思っていた言葉を貰った

 


ここで自分の、貰うことはないだろうという思い込みに気がつく

 


自分を打ち明けること

自分を出すことが

こんな結果になるのか。

 


自分から背を向けてきたんだ

要らないと

撥ねつけていたのは

やはり

自分だった

ということにも気がつく

 


そうか

わたしは

これを知らずに生きてきたのか

 


世界はわたしに微笑んだ

 


そう感じた

 


でも実は、ずっと前から

 


生まれた時から

産んでくれた時から

 


世界はずっとわたしを抱きしめていたのかもしれない

 


わたしはそれには気がつかずに

 


気がつきたくなかったのか

 


気がつかなかった、、

 

 

 


ありったけのありがとうを込めて。

 

 

 


ヨガの時にふと過ぎった

これは

The LOOPに入ろうとしているのかもしらん🤦‍♀️

 

 

 

7年前の今日の思い出

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すぐそばに

いつもある

すぐそばに

いつも手が届き

自分の好きな時に引き寄せることができて

触ることができて

 

そばにいないと

ようやく一人になれた、、と

思うくらい

そばにいて

 

わたしが気にかけても 気にかけなくても

そばにいて

 

それぐらい

当たり前のもの

 

でも

その

そばにいるって

この先ずっとのことじゃなくて

 

明日、いやこの瞬間に

終わりがくるかもしれないのに

終わりがこなくても

少しずつ変化をしていくもので

当たり前も当たり前じゃないもので

 

でもわたしったら

当たり前に慣れてしまって

慣れすぎてしまって

当たり前が当たり前すぎて

 

それが本当に幸せなことなんだということに

気がつかない時があるんだ

 

 

 

顔を洗って髪を洗ってふかふかの枕と布団で寝るのは幸せだ

なかなか今月はブログを書くに至らない…

なぁーと思って、無理やり書こうとしています。

 

溢れるものはそれはそれはあるものなのですが、

言葉にするのがどうやら億劫

 

億劫なのは自分を観ること

 

観ることをしたいのか、

実はしたくないのか、

 

そこから観ていかなくてはならぬと

気がついたからね

 

ここ数日の心の揺れは

久し振りに大きくてね

 

気がつけば月は満ち満ちており

あぁ、そうだったね、と自分を振り返り

 

毎日のように

何かしらの涙が溢れて

 

もう今月で四十だしね

めっきり涙腺も弱くなったよねって

思ったり

前から弱々なんだけど

 

あいかわらずの

まよまよな日々

 

これと思ったら突き進むを

出来ない自分に苦しむ

 

しかし

この突き進むを

出来ない自分が自分かもとか、、ね

 

曲がりくねった進み方なんだよね

 

 

明日は雨だそうだ

わたしは傘を持って

どこに行くのだ

 

 

 

エネルギーがいるんだよ

自分の内側を観るとき、掘り起こすとき、

エネルギーが必要です

 

湧き上がる情動が少し落ち着いたとき、

わたしは自分の感覚を頼りに観ようとするから、、

 

疲れます。

 

 

昨日、夫と話をしました。

 

普段から「なぜ」を問い続けることが大切だと。

好きなもの、嫌いなもの、を掘ること。

「なぜ自分はそれが好き?or嫌い?」をずっと考え続けること。

さすれば、自分とは一体どういう人間なのかが、見えてくるじゃろうて…(仙人風)

 

という訳だ。

 

ここで観えてくる自分、というのは、

この世の中でどういうカルマを持ち、どんなマリオ(人間)として生まれたか、ということだな、と1人補足した自分。

 

他にも様々話したのだけれど、、忘れてしまった。メモを取っとけばよかった、と後悔。

 

 

自分のことについては、

一つ、夫と話す時、私はプログラミング発動が沢山あって、自分でよく分からなくなってしまう時がある事。

一つ、自分はそのプログラミングを外したいと考えているが、発動中は気がつけない。

 

今回もそれが往々にしてあり、

その度に会話がちぐはぐになってしまった。

 

夫→論理的思考からくる言葉

自分→プログラミング発動による言葉、反応、反射

の為、双方向のコミュニケーションではなくなってしまうのだ。

 

私に関しては、なぜこの反応か?を考えていたら、自分の防御姿勢に気がついた。

 

 

夫と話す時というのは、論理的思考の訓練になる。

自分の言葉がプログラムの発動か、そうではなくて、論理的思考なのか、を、嫌でも暴いてくれる。(←だから、夫と話すとなんだか苦しいんだ。しかしこんなこと書いていいんだろうか…と一瞬自問自答)

 

プログラムからくる言葉が見えてきたら、自分がどんなプログラムを持っているかも(考えると)わかってくる。

 

だけれど

夫婦というよりまるで先生と生徒な感じで

これって正直どうなのだろうと、また1人考える。

論理的思考の訓練について、色々聞いたけれど、拾えたものが上記だけだったから、レジュメにして欲しく、メールをお願いしようかと思ったくらいの、先生と生徒感。

 

が、「今の」私たちの関わり方がそうなのだなと、とりあえず理解した。

 

 

 

乱文

久しぶりに時間が取れたので、ブログのカテゴライズをし直そうと思って過去記事をサラッと見てみたのだけれど、余りの記事の多さに面倒になって早々に諦めました自分です。

 

 

帰省して感じたこと。

親を疑うこと=自分を疑うこと

と、

なんとなく感じた

 

先日の記事にも書いたけれど、、

親への違和感が今でも拭えない。

 

そして、少し悲しくなった。

 

結局、親が無意識に行なっている言動は、

まるで自分を観ているようだ

 

だから、こうなんだ、、

だから、今、自分はここで苦しんでいるんだ、、

と妙に納得するのだ

 

やはり、立ち返るは自分であり、

先日は偉そうに色々書いたけれど、

観るべきは

親ではなく

自分の内側

 

親との葛藤を抱えやすい星回りの自分は

ここで、ものすごい勉強になるのでしょう、、

 

 

 

 

以下、本日書く

 

今日はタダヨガサットサンガ

 

親の行動、言葉、、に苛立った自分

 

何故だろう?

 

期待するのを私はもうやめたのだ。

本当は、とってもとってもとっても期待しまくっていたけれど、

もう無理だ、苦しいだけだ、と諦めたのだ。

それを、なぜ?親はまだ、持ち続けているのだ?

と、情けなく思ったからだ。

同じように苦しんでいないからだろう!!!

と、、あぁ、ここでも私は自分が一番不幸の女王として、

復讐を果たそうとしているのかもしれない。

復讐しようとしているのは、私なのかもしれない。

 

私の根底にあるのものは、一貫して、

「自分は悪くない」

と、いうことだ。今書いていて気が付いた。

これは、きっと前からの持ち越しであり、自分の課題だ。

 

あぁしかし、

ここからどう抜け出せばいいのだろうか。

 

実家の出来事の方が、私にはリアルに感じられる。

ここにいるのに、ここにはいない自分。

ここにいるはずなのに、薄い感覚。

夢のようで現実感もないのかもしれない。

親の一言、実家の出来事で、すぐ昔に引き戻される。

まるでTime Machineである。

飽き飽きするような時間旅行を何遍も繰り返している。

 

 

さっき、

スーパーで大根を買った。

自転車のカゴに入れて家に帰る最中に思った。

この大根を、私はどうして手にしているのだろう?

何故?この大根は私の所に来たのだろう?

 

 

私が求めたからだ。

自転車には確かに大根が入っている。

でも、この大根と、今の自分と、同じ世界にはいない(気がする)

同じ世界にいないのに、なんで求めることができて、

なんで、一緒にいるように感じるのか?

 

この見立ては間違っているのかもしれない。

でも、美味しそうで、食べたくて、自分が買った大根だ。

一瞬、触れ合って。

一期一会の大根。

この、カゴに入っていることがとてもレアなことだと感じた。

 

一人でいると、自分が何者かわからなくなる。

みんなが違うから一緒にいるのだ。

という話に心から納得した。

そうだと自分も思う。

 

だとしたら、

私は、

自分の家族を観た時、どんな自分を発見するのだろうか…

発見するのは、、、怖いな。凄いものが出てくる気がする。

でも、そこを観ていくことが、生きることなのかもしれない。

それが、生きる、ということなのかもしれない。

とすれば、

やっぱり綺麗にキラキラと生きていく、を目標に掲げていた自分は、

随分と方向を間違えていたようだと、改めて思い知らされた1日だった。

 

次回、

「自分は悪くない」について。

 

 

 

生きること 死ぬこと

なんとヘヴィーな記事タイトルだろう、、

うむ。

 

生きること、の方にリアリティのある人

死ぬこと、の方にリアリティがある人

 

それぞれいるだろう

 

わたしは、どちらかというと、、

死ぬこと、にリアリティを感じる人間だ

幼い頃入院したことがあったが、

幼すぎたせいか、死、そのものにはあまり直結はしなかった(痛かったし、苦しかったけれど

が、

 

苦しい、

いやだ、

生きているのが、いやだ

先が見えない、

これがいつまで続くのか、

死ねばこの苦しみから逃れられるのではないか、

という気持ちから

死の方を見る時がよくあった

死ぬことに逃げる。

今が苦し過ぎて、死が楽に見える。

が、、、

実際に死ぬことは怖く、

その行動を起こすことも怖く、

死ぬことが出来ない自分を呪いながら

その思いを何とかやり過ごして

毎日毎日、暗いあなぐらの中でのたうち回った過去がある

 

 

 

すげー暗いブログだな、おい!w

言いたいことは、

そんな日もあったが、今は元気!キャピ!

…じゃなくて

 

あんな風にあなぐらで過ごしたことを

忘れずに持っていこうと、今は思うのだ。

あの頃を懐かしむ訳ではない、

リアルに思い出して落ち込む訳ではない、

清々しく吹っ切るでもない、

ドロドロした暗い暗いところにいた自分を

あの日々を過ごしたあの自分を、ただ、

そのままに

あの頃の自分と今の自分はいつも隣同士で

手を握り

 

とりあえず今は、、、仕方なく…?生きているしな

 

あやうい所から逃げたくて、でもそこをいつも見つめてしまう自分も認めざるを得ない

 

自己開示は自己受容と感じる自分

何日か前に勢いで書いた

この暗い暗いブログを出してみるよ。